2021年06月29日
赤飯弁当
Wimbledonも始まって
シニアテニスは7人(*^^*)
1面でしたが皆さん休みたがってばかり
(笑)
テニスやってブラックモンブラン食べるもハズレ。゚(゚´Д`゚)゚。
以前は1,000円も良く当たってたのにねぇ。
ブラックモンブラン当選で1枚ついてくる『波動』
これも良かったね。
>>>
親守歌が聞こえる
私が中学三年生で、
高校受験を間近にひかえた寒い冬のことであった。
私は中学二年生の頃から、先生の勧めもあり、他の二人の友人と共に天草を離れ、熊本市内の
高校をめざして頑張っていた。
父母も特に反対しなかったため、当然、行かせてもらえるものと考えていたのである。
しかし、市内の高校に行くことになれば、
下宿が必要で、そのために要する費用は大変なものであった。
八人の子どもをかかえた“五反百姓”のわが家には、
とうていそのような余裕など
なかったのである。
正月も近まったある寒い夜、
私は父に呼ばれて、囲炉裏の端に座らされた。
私の心は期待でおどっていた。
母も父の横に座って、私をじっと見つめていた。
そして、父が言ったのである。
「熊本はあきらめて、天草の高校に行ってくれ」
私は驚き、「なんでや」と父にむかって、大声で叫んでいた。
私は泣きながら、父のかいしょうのなさを何回も何回も大声でののしった。
日頃厳しい父もその時は目をつぶったまま、無言で
何かをかみしめているようであった。
母は何かを頼むような目で私をじっと見つめ、
その目には涙が光っていた。
しかし、私は消えかけた囲炉裏の火を見つめながら、父母をののしり続けたのであった。
その夜から、私はぜんぜん勉強せず、家族にも口を聞かなくなった。
そのため、家の中は
毎日、何となく重苦しい雰囲気が続いていた。
母は何やかやと用件を作って、私のところへ
やって来て、話しかけるのであった。
しかし、私はそんな母を徹底的に無視し続けたのであった。
そして、年が明けて元旦となった。
私の家では、毎年元旦の朝には、家族全員がそろって、
初詣に行くことになっていた。
元旦の朝、母は何回も私のところへやって来て、一緒にくるように必死でたのんだのである。
しかし、私はそんな母を無視しふとんをかぶったまま寝ていたのである。それで母はとうとう
あきらめて、出て行ったのである。
ふと気がつくと、枕元に五,六枚の年賀状が置いてあった。
私はふとんの中で、何気なくそれを手にし、たいした感情もなく、一枚ずつそれをめくっていった。
それはほとんど同じクラスの友達からのもので、「今年も頑張ろう」「今年もよろしく」という内容のものであった。
しかし、最後の一枚を読んで私は驚いた。
それは年賀状らしくない長々しいものであり、エンピツ書きで、ところどころなめたらしい濃い部分が残り、カタカナまじりで書かれていた。
差出人の名前はなかったが、私にはそれが同じ家に住む母からのものだということはすぐにわかった。
「お前に明けましておめでとうというのは、本当につらいです。
でも母ちゃんは、お前が元旦に
皆の前で笑いながら、おめでとうと言ってくれる夢を何回も見ました。
母ちゃんは、小さい頃お前が泣き出すと、子守唄をうたって泣きやませました。でも、今はもうお前にうたってやる
子守唄もないので、本当に困っています。
今度はお前が母ちゃんに、親守歌をうたってほしい」
十四歳の私は、元旦のふとんの中で、声をあげて泣いた。
そして、泣きながら、母にあやまり続けたのであった。
それは反抗期の私に対する母の、心からの子守唄だったのである。
そして、この年賀状こそ、まさに母の心の匂いであり
、心の風景だったのである。
私はこの母の子守唄のおかげで立ち直り、地元の高校に進学し、
その後、大学へも進学した。
「心の風景」 − それは家族、友人、知人、地域の人達、そんなあらゆる人達との、人と人とのつながりの原点なのである。
(「こころの風景 親守歌が聞こえる」荒木忠夫著 より抜粋)
無事に日晴も済んだんで赤飯弁当
#赤飯弁当
#くまモン頑張れ絵
#くまモン
#赤飯
#鰤の照り焼き
#ほうれん草
#春菊
#胡麻和え
#桃ゼリー
#牛乳かん
#おにぎり
#お弁当記録
#PrayForKyoani
今朝は2匹で朝ごはん(=^・^=)






シニアテニスは7人(*^^*)
1面でしたが皆さん休みたがってばかり
(笑)
テニスやってブラックモンブラン食べるもハズレ。゚(゚´Д`゚)゚。
以前は1,000円も良く当たってたのにねぇ。
ブラックモンブラン当選で1枚ついてくる『波動』
これも良かったね。
>>>
親守歌が聞こえる
私が中学三年生で、
高校受験を間近にひかえた寒い冬のことであった。
私は中学二年生の頃から、先生の勧めもあり、他の二人の友人と共に天草を離れ、熊本市内の
高校をめざして頑張っていた。
父母も特に反対しなかったため、当然、行かせてもらえるものと考えていたのである。
しかし、市内の高校に行くことになれば、
下宿が必要で、そのために要する費用は大変なものであった。
八人の子どもをかかえた“五反百姓”のわが家には、
とうていそのような余裕など
なかったのである。
正月も近まったある寒い夜、
私は父に呼ばれて、囲炉裏の端に座らされた。
私の心は期待でおどっていた。
母も父の横に座って、私をじっと見つめていた。
そして、父が言ったのである。
「熊本はあきらめて、天草の高校に行ってくれ」
私は驚き、「なんでや」と父にむかって、大声で叫んでいた。
私は泣きながら、父のかいしょうのなさを何回も何回も大声でののしった。
日頃厳しい父もその時は目をつぶったまま、無言で
何かをかみしめているようであった。
母は何かを頼むような目で私をじっと見つめ、
その目には涙が光っていた。
しかし、私は消えかけた囲炉裏の火を見つめながら、父母をののしり続けたのであった。
その夜から、私はぜんぜん勉強せず、家族にも口を聞かなくなった。
そのため、家の中は
毎日、何となく重苦しい雰囲気が続いていた。
母は何やかやと用件を作って、私のところへ
やって来て、話しかけるのであった。
しかし、私はそんな母を徹底的に無視し続けたのであった。
そして、年が明けて元旦となった。
私の家では、毎年元旦の朝には、家族全員がそろって、
初詣に行くことになっていた。
元旦の朝、母は何回も私のところへやって来て、一緒にくるように必死でたのんだのである。
しかし、私はそんな母を無視しふとんをかぶったまま寝ていたのである。それで母はとうとう
あきらめて、出て行ったのである。
ふと気がつくと、枕元に五,六枚の年賀状が置いてあった。
私はふとんの中で、何気なくそれを手にし、たいした感情もなく、一枚ずつそれをめくっていった。
それはほとんど同じクラスの友達からのもので、「今年も頑張ろう」「今年もよろしく」という内容のものであった。
しかし、最後の一枚を読んで私は驚いた。
それは年賀状らしくない長々しいものであり、エンピツ書きで、ところどころなめたらしい濃い部分が残り、カタカナまじりで書かれていた。
差出人の名前はなかったが、私にはそれが同じ家に住む母からのものだということはすぐにわかった。
「お前に明けましておめでとうというのは、本当につらいです。
でも母ちゃんは、お前が元旦に
皆の前で笑いながら、おめでとうと言ってくれる夢を何回も見ました。
母ちゃんは、小さい頃お前が泣き出すと、子守唄をうたって泣きやませました。でも、今はもうお前にうたってやる
子守唄もないので、本当に困っています。
今度はお前が母ちゃんに、親守歌をうたってほしい」
十四歳の私は、元旦のふとんの中で、声をあげて泣いた。
そして、泣きながら、母にあやまり続けたのであった。
それは反抗期の私に対する母の、心からの子守唄だったのである。
そして、この年賀状こそ、まさに母の心の匂いであり
、心の風景だったのである。
私はこの母の子守唄のおかげで立ち直り、地元の高校に進学し、
その後、大学へも進学した。
「心の風景」 − それは家族、友人、知人、地域の人達、そんなあらゆる人達との、人と人とのつながりの原点なのである。
(「こころの風景 親守歌が聞こえる」荒木忠夫著 より抜粋)
無事に日晴も済んだんで赤飯弁当
#赤飯弁当
#くまモン頑張れ絵
#くまモン
#赤飯
#鰤の照り焼き
#ほうれん草
#春菊
#胡麻和え
#桃ゼリー
#牛乳かん
#おにぎり
#お弁当記録
#PrayForKyoani
今朝は2匹で朝ごはん(=^・^=)
Posted by しろちゃん at 07:41 | Comments(2)
この記事へのコメント
朝から声を出して泣けました。
いろんな分岐点を経て、今の貴女がいらっしゃるのですね。
高校のギリギリまでの選択は私も体験者なので、父との葛藤など当時を思い出しました。
いろんな分岐点を経て、今の貴女がいらっしゃるのですね。
高校のギリギリまでの選択は私も体験者なので、父との葛藤など当時を思い出しました。
Posted by Mari's Craft
at 2021年06月29日 08:15

>Mari's Craftさん
おはようございます(*^^*)
竹下製菓から波動が送ってきて、これ読んで感動して
著者の荒木忠夫さんへ
手紙書いたら返事きましたよ。
グッときますよね。
こういう文章読んで品性向上心がけたいものです。
おはようございます(*^^*)
竹下製菓から波動が送ってきて、これ読んで感動して
著者の荒木忠夫さんへ
手紙書いたら返事きましたよ。
グッときますよね。
こういう文章読んで品性向上心がけたいものです。
Posted by しろちゃん
at 2021年06月29日 08:22
