2021年06月27日
高菜おにぎり弁当 市村清記念メディカルコミュニティーセンター
市村清記念メディカルコミュニティーセンターのオープン マルシェに行ってみる。
前、町長の仕事の集大成。
立派な施設ができました。
2階に市村清さんの活躍を振り返るコーナーがあって良かった。
この建物が継続して町民の健康増進に役立っていく事を祈ります(^人^)
市村清記念メディカルコミュニティセンター みやき町
https://www.town.miyaki.lg.jp/chosei/oshirase/_4065.html
https://www.town.miyaki.lg.jp/chosei/oshirase/_4065.html
市村清さんと言えば、以前、ブラックモンブランで1000円当選した時に
ついてきた波動って読み物『銀座三愛物語』もすっごく感動したことでした。
>>>
“~波動~“
銀座三愛の誕生話
いまの日本で一番土地の値段の高い所はどこかご存じだろうか。東京新宿東口「高野」というフルーツパーラーの所が最高と言われている。なるほど新宿という街は、今や日本一の繁華街。日曜日ともなれば、人、人、人の波である。たくさんの人がいて思うように前へ歩けない。特にこの「高野」から三越へ向かう一角はすごい混雑ぶりである。この「高野」の土地が日本一になったのが数年前。それまでは戦後ずっとトップの座を保ち続けていたのは、銀座四丁目の一角、「三愛」のビルが建っている土地を今は亡き市村清社長(リコー、三愛その他の会社の社長をし、市村学校といって若い経営者を育ててきた異色の財界人。現在の東急五島昇会長もその門下生であった。)が手に入れられたいきさつをあなたは知っているだろうか。
昭和20年8月に日本は終戦を迎えた。東京の焼け野原に立った市村社長は東京の復興はやはり銀座から始まるだろう、自分も銀座の特に目抜き通りの四丁目の一角に土地を持ちたいと探し始めた。しかし四丁目の一角は昔から三越がある。和光(服部時計店)がある。ライオン・ビアホールがある。この三つはどうにも交渉の余地がない。幸いにも今、「三愛」が建っている所だけが「佐野屋」という個人の足袋屋さんの持ち物であった。市村社長はこの佐野屋へお百度をふむようにしてお願いに行った。当時佐野屋には老未亡人がいて実権を握っていた。この年寄りが頑固者でなかなか首を縦にふってくれない。
終戦のつぎの年の昭和21年のある大雪の降った日。電車は止まる、街を歩いている人もほとんどいない。「そうだ、こういう日に訪ねていったら、こちらの熱意に打たれてウンと言ってくれるかもしれない。」と考えた市村社長は、傘をさして大雪の中を歩いて行った。これにはさすがのご隠居さんもびっくりされて、「こんな日によくおいでになりましたね、それほどあの土地がほしいんですか。」と言われた。「はい、なんとしてもお譲りいただきたいと思うのです。」と重ねてお願いすると、「わかりました。ではもう二、三日猶予を下さい。最終的なご返事を差し上げますから。」その日も返事をもらえなかった。次の日も返事をもらえなかった。次の日である。雪はやんだが、道の上に何十センチも積もっている。タクシーなんかはもちろんない時代である。その雪の上をふんでこのご隠居さんが当時浅草橋にあった市村社長の会社を訪ねたきた。年寄りだからそれでなくても足許がおぼつかない。雪の上を下駄で歩いてくると歯の間に雪がはさまる。何度ころびそうになったかわからない。電車に乗るときもそうだ。「おばあちゃん、お先にどうぞ。」「おばあちゃん、この席におすわりなさい。」などと言ってくれる人は一人もいない。というのは終戦後の日本というのは大変な時代であった。遠くへ旅行するのは統制があって切符が買えない。国電などでもわれ勝ちに窓から飛び込む。年寄りなんか、押し飛ばされ、突き飛ばされ、真っ白な足袋も泥だらけになってしまった。食べる物でもそうだ。食糧を求めて人々は闇市に集まる。サツマイモなどあれば上等。サツマイモの茎などを刻んで食べた。今では豚も食べないようなトウモロコシの滓をお湯でこね、団子にして食べた。あなたが今食べているような真っ白なご飯などは「銀しゃり」と言って涙を流して食べたものだ。たいへんな貴重品であった。
電車ひとつ乗るにも大変難儀したご隠居は、何度このまま帰ってしまおうと思ったかわからなかった。しかし、せっかく出てきたのだからと、気を取り直し、取り直し、やっとの思いで市村社長の会社へたどりついた。受付へ行き、そこにいる女性に「社長さん、おいでになりますか?」と面会を求めた。この時の受付の女性の応対が素晴らしかったのである。満面に明るい笑みを浮かべ、「いらっしゃいませ。おばあちゃま、この雪の上をお歩きになって転ぶようなことはございませんでしたか?外は寒うございましたでしょ。ほんとうによくおいでくださいました。社長室は三階でございます。どうぞ三階にお上がり下さいませ。」と実にやさしい言葉で迎えてくれた。おばあちゃんは昔気質の人。泥だらけの下駄で上がってはいけないと思って下駄をぬぎ、足袋一枚でコンクリートの床の上に降り立った。この時、受付の女性がツカツカと出てきて、「おばあちゃま、足が寒うございましょう。もし私のスリッパで良かったらこのスリッパをお履きになってください。」といって、自分の履いていたスリッパをぬいでおばあちゃんに履かせて差し上げた。会社からの支給品ではない。物資の足りない時に家から自分用に持ってきたスリッパである。それを履かせてあげて、自分は裸足で氷のように冷たくなっているコンクリートの床の上に立ってもいやな顔ひとつしない。靴下一枚はいていない。それだけではなく、「階段が急でございますし、焼けビルで手摺もございませんし、どうぞ転ばないように気をつけてお上がり下さいませね。」とお年寄りを抱きかかえるようにして三階へご案内した。市村社長もびっくりして出てきた。
「よくおいでくださいました。ご返事いただけるなら、私の方からお伺いいたしましたのに。で、いかがでしょうか。あの土地をお譲りいただけましょうか?」と聞くと、「はい、いろいろとかんがえましたが、あの土地は先祖代々私まで伝わってきた土地です。私の代になって手放したとあってはご先祖様に申し開きが立たない。だから今日はハッキリお断りしようと思ってお伺いしました。」と断られたのである。長い間の努力も水の泡に帰してしまって市村社長は思わず首をうなだれ、「どうしてもダメでしょうか。」と聞くと「はい。でも今この瞬間私の気持ちが変わりました。」とおばあちゃんがいわれた。
耳を疑った市村社長、「えっ、気持ちが変わられたとおっしゃると、どう変わられたのですか。」「よろしゅうございます、あの土地あなたにお譲りいたしましょう。」と言われたのである。市村社長、天にも昇る喜びで、「本当ですか!本当にお譲りいただけるのですか!ありがとうございます。それでなぜ、今お気持ちをお変えくださったのですか?」
とたずねると、老未亡人はこちらへ来るのに途中で大変難儀をされたことをお話しされた。「実は何度も帰ってしまおうと思ったかわかりませんでした。でもせっかく来たのだからと気を取り直し、やっとの思いであなたの会社へたどり着きました。ところが、受付のお嬢さんがなんと素晴らしかったことでしょう。明るい笑顔とやさしい言葉で私を迎えてくれ、私が下駄をぬぐとあの人は自分が履いていたスリッパをぬいで私に履かせてくれました。そして靴下一枚履いていない裸足で冷たいコンクリートの床に降り立ってもいやな顔ひとつしませんでした。それだけでない。この三階まで自分の母親を抱きかかえるようにして私を案内してくれました。
東京に住む人達が、今日一日自分はどうしたら生きていけるだろう、食べていけるだろうと自分のことだけで必死な時代。みんなが自分のことだけしか考えていない。人の心がすさみきっている時に、こんなに心の美しい、心のやさしい女性がいるとは夢にも思っていませんでした。こういう素晴らしい女性を部下にお持ちの社長さんでしたら、社長さんもきっと立派な方に違いないでしょう。そういう人にお譲りするのなら、先祖もきっと喜んでくれるに違いないと思います。よろしゅうございます。あの土地無条件でお譲りいたしましょう。」と言い、値段もなにもあなたのおっしゃるとおりで結構、と言って譲ってくれたのである。
市村社長はこの時のことを忘れてはいけない、人の心を動かすのはなんといっても愛の心だ。この愛の心を、言葉に、行動に、態度に現していかなければならない。
人を愛し、仕事を愛し、国を愛そう。この三つの愛を永遠に忘れてはいけませんよ、ということで「三愛」という社名をつけたのである。
いま、何十億という金を積んでも、あの土地は手に入らない。この土地を市村社長の手に入れさせたのは、受付の女性の話し方ひとつにあったのである。もしこの時、受付嬢がありきたりの応対しかしなかったら、あるいはつっけんどんな話し方しかしなかったら、この「三愛」のビルは生まれなかったかもしれない。
受付の仕事などつまらない、などと思ったらとんでもない間違いである。あなたのお客様に接する話し方ひとつひとつが、会社の運命をも変える力を持っている。接客とは素晴らしい仕事ではないか。あなたが現在直接お客様に接する仕事でなくても、係りの人が留守であなたが応対しなければならない時は必ずある。そういう時はもし接客など自分の仕事ではないとか自分は慣れないからといって不愉快な話し方、態度を示したら、何十年というお得意様を失ってしまうことにならないとも限らない。
どの部署で働いている人でも、全社員がお客様意識を徹底して持ち、素晴らしい応対が出来るようにしておかなければならないであろう。 .
>>>>>>
#高菜弁当
#くまモン頑張れ絵
#くまモン
#おにぎり
#お弁当
#高菜
#きんぴらごぼう
#黒ごまプリン
#串カツ
#日曜日
#6月27日
#PrayForKyoani
#ノンフライヤー
ニャークロ、チュール3本、一気飲み(=^・^=)v
前、町長の仕事の集大成。
立派な施設ができました。
2階に市村清さんの活躍を振り返るコーナーがあって良かった。
この建物が継続して町民の健康増進に役立っていく事を祈ります(^人^)
市村清記念メディカルコミュニティセンター みやき町
https://www.town.miyaki.lg.jp/chosei/oshirase/_4065.html
https://www.town.miyaki.lg.jp/chosei/oshirase/_4065.html
市村清さんと言えば、以前、ブラックモンブランで1000円当選した時に
ついてきた波動って読み物『銀座三愛物語』もすっごく感動したことでした。
>>>
“~波動~“
銀座三愛の誕生話
いまの日本で一番土地の値段の高い所はどこかご存じだろうか。東京新宿東口「高野」というフルーツパーラーの所が最高と言われている。なるほど新宿という街は、今や日本一の繁華街。日曜日ともなれば、人、人、人の波である。たくさんの人がいて思うように前へ歩けない。特にこの「高野」から三越へ向かう一角はすごい混雑ぶりである。この「高野」の土地が日本一になったのが数年前。それまでは戦後ずっとトップの座を保ち続けていたのは、銀座四丁目の一角、「三愛」のビルが建っている土地を今は亡き市村清社長(リコー、三愛その他の会社の社長をし、市村学校といって若い経営者を育ててきた異色の財界人。現在の東急五島昇会長もその門下生であった。)が手に入れられたいきさつをあなたは知っているだろうか。
昭和20年8月に日本は終戦を迎えた。東京の焼け野原に立った市村社長は東京の復興はやはり銀座から始まるだろう、自分も銀座の特に目抜き通りの四丁目の一角に土地を持ちたいと探し始めた。しかし四丁目の一角は昔から三越がある。和光(服部時計店)がある。ライオン・ビアホールがある。この三つはどうにも交渉の余地がない。幸いにも今、「三愛」が建っている所だけが「佐野屋」という個人の足袋屋さんの持ち物であった。市村社長はこの佐野屋へお百度をふむようにしてお願いに行った。当時佐野屋には老未亡人がいて実権を握っていた。この年寄りが頑固者でなかなか首を縦にふってくれない。
終戦のつぎの年の昭和21年のある大雪の降った日。電車は止まる、街を歩いている人もほとんどいない。「そうだ、こういう日に訪ねていったら、こちらの熱意に打たれてウンと言ってくれるかもしれない。」と考えた市村社長は、傘をさして大雪の中を歩いて行った。これにはさすがのご隠居さんもびっくりされて、「こんな日によくおいでになりましたね、それほどあの土地がほしいんですか。」と言われた。「はい、なんとしてもお譲りいただきたいと思うのです。」と重ねてお願いすると、「わかりました。ではもう二、三日猶予を下さい。最終的なご返事を差し上げますから。」その日も返事をもらえなかった。次の日も返事をもらえなかった。次の日である。雪はやんだが、道の上に何十センチも積もっている。タクシーなんかはもちろんない時代である。その雪の上をふんでこのご隠居さんが当時浅草橋にあった市村社長の会社を訪ねたきた。年寄りだからそれでなくても足許がおぼつかない。雪の上を下駄で歩いてくると歯の間に雪がはさまる。何度ころびそうになったかわからない。電車に乗るときもそうだ。「おばあちゃん、お先にどうぞ。」「おばあちゃん、この席におすわりなさい。」などと言ってくれる人は一人もいない。というのは終戦後の日本というのは大変な時代であった。遠くへ旅行するのは統制があって切符が買えない。国電などでもわれ勝ちに窓から飛び込む。年寄りなんか、押し飛ばされ、突き飛ばされ、真っ白な足袋も泥だらけになってしまった。食べる物でもそうだ。食糧を求めて人々は闇市に集まる。サツマイモなどあれば上等。サツマイモの茎などを刻んで食べた。今では豚も食べないようなトウモロコシの滓をお湯でこね、団子にして食べた。あなたが今食べているような真っ白なご飯などは「銀しゃり」と言って涙を流して食べたものだ。たいへんな貴重品であった。
電車ひとつ乗るにも大変難儀したご隠居は、何度このまま帰ってしまおうと思ったかわからなかった。しかし、せっかく出てきたのだからと、気を取り直し、取り直し、やっとの思いで市村社長の会社へたどりついた。受付へ行き、そこにいる女性に「社長さん、おいでになりますか?」と面会を求めた。この時の受付の女性の応対が素晴らしかったのである。満面に明るい笑みを浮かべ、「いらっしゃいませ。おばあちゃま、この雪の上をお歩きになって転ぶようなことはございませんでしたか?外は寒うございましたでしょ。ほんとうによくおいでくださいました。社長室は三階でございます。どうぞ三階にお上がり下さいませ。」と実にやさしい言葉で迎えてくれた。おばあちゃんは昔気質の人。泥だらけの下駄で上がってはいけないと思って下駄をぬぎ、足袋一枚でコンクリートの床の上に降り立った。この時、受付の女性がツカツカと出てきて、「おばあちゃま、足が寒うございましょう。もし私のスリッパで良かったらこのスリッパをお履きになってください。」といって、自分の履いていたスリッパをぬいでおばあちゃんに履かせて差し上げた。会社からの支給品ではない。物資の足りない時に家から自分用に持ってきたスリッパである。それを履かせてあげて、自分は裸足で氷のように冷たくなっているコンクリートの床の上に立ってもいやな顔ひとつしない。靴下一枚はいていない。それだけではなく、「階段が急でございますし、焼けビルで手摺もございませんし、どうぞ転ばないように気をつけてお上がり下さいませね。」とお年寄りを抱きかかえるようにして三階へご案内した。市村社長もびっくりして出てきた。
「よくおいでくださいました。ご返事いただけるなら、私の方からお伺いいたしましたのに。で、いかがでしょうか。あの土地をお譲りいただけましょうか?」と聞くと、「はい、いろいろとかんがえましたが、あの土地は先祖代々私まで伝わってきた土地です。私の代になって手放したとあってはご先祖様に申し開きが立たない。だから今日はハッキリお断りしようと思ってお伺いしました。」と断られたのである。長い間の努力も水の泡に帰してしまって市村社長は思わず首をうなだれ、「どうしてもダメでしょうか。」と聞くと「はい。でも今この瞬間私の気持ちが変わりました。」とおばあちゃんがいわれた。
耳を疑った市村社長、「えっ、気持ちが変わられたとおっしゃると、どう変わられたのですか。」「よろしゅうございます、あの土地あなたにお譲りいたしましょう。」と言われたのである。市村社長、天にも昇る喜びで、「本当ですか!本当にお譲りいただけるのですか!ありがとうございます。それでなぜ、今お気持ちをお変えくださったのですか?」
とたずねると、老未亡人はこちらへ来るのに途中で大変難儀をされたことをお話しされた。「実は何度も帰ってしまおうと思ったかわかりませんでした。でもせっかく来たのだからと気を取り直し、やっとの思いであなたの会社へたどり着きました。ところが、受付のお嬢さんがなんと素晴らしかったことでしょう。明るい笑顔とやさしい言葉で私を迎えてくれ、私が下駄をぬぐとあの人は自分が履いていたスリッパをぬいで私に履かせてくれました。そして靴下一枚履いていない裸足で冷たいコンクリートの床に降り立ってもいやな顔ひとつしませんでした。それだけでない。この三階まで自分の母親を抱きかかえるようにして私を案内してくれました。
東京に住む人達が、今日一日自分はどうしたら生きていけるだろう、食べていけるだろうと自分のことだけで必死な時代。みんなが自分のことだけしか考えていない。人の心がすさみきっている時に、こんなに心の美しい、心のやさしい女性がいるとは夢にも思っていませんでした。こういう素晴らしい女性を部下にお持ちの社長さんでしたら、社長さんもきっと立派な方に違いないでしょう。そういう人にお譲りするのなら、先祖もきっと喜んでくれるに違いないと思います。よろしゅうございます。あの土地無条件でお譲りいたしましょう。」と言い、値段もなにもあなたのおっしゃるとおりで結構、と言って譲ってくれたのである。
市村社長はこの時のことを忘れてはいけない、人の心を動かすのはなんといっても愛の心だ。この愛の心を、言葉に、行動に、態度に現していかなければならない。
人を愛し、仕事を愛し、国を愛そう。この三つの愛を永遠に忘れてはいけませんよ、ということで「三愛」という社名をつけたのである。
いま、何十億という金を積んでも、あの土地は手に入らない。この土地を市村社長の手に入れさせたのは、受付の女性の話し方ひとつにあったのである。もしこの時、受付嬢がありきたりの応対しかしなかったら、あるいはつっけんどんな話し方しかしなかったら、この「三愛」のビルは生まれなかったかもしれない。
受付の仕事などつまらない、などと思ったらとんでもない間違いである。あなたのお客様に接する話し方ひとつひとつが、会社の運命をも変える力を持っている。接客とは素晴らしい仕事ではないか。あなたが現在直接お客様に接する仕事でなくても、係りの人が留守であなたが応対しなければならない時は必ずある。そういう時はもし接客など自分の仕事ではないとか自分は慣れないからといって不愉快な話し方、態度を示したら、何十年というお得意様を失ってしまうことにならないとも限らない。
どの部署で働いている人でも、全社員がお客様意識を徹底して持ち、素晴らしい応対が出来るようにしておかなければならないであろう。 .
>>>>>>
#高菜弁当
#くまモン頑張れ絵
#くまモン
#おにぎり
#お弁当
#高菜
#きんぴらごぼう
#黒ごまプリン
#串カツ
#日曜日
#6月27日
#PrayForKyoani
#ノンフライヤー
ニャークロ、チュール3本、一気飲み(=^・^=)v
Posted by しろちゃん at 07:35 | Comments(4)
この記事へのコメント
しろちゃんさま。
おはようございます。三愛の市村さんが、みやき町のご出身だというのは、知っていましたが、素晴らしい方ですね。
感動してしまいました。
引っ越し手伝いで疲れ果てていましたが、今朝は
朝から清々しい一日になりそうです。
ありがとうございました。
おはようございます。三愛の市村さんが、みやき町のご出身だというのは、知っていましたが、素晴らしい方ですね。
感動してしまいました。
引っ越し手伝いで疲れ果てていましたが、今朝は
朝から清々しい一日になりそうです。
ありがとうございました。
Posted by 多良岳に寝ころぶイノシシ at 2021年06月27日 07:55
> 多良岳に寝ころぶイノシシさん
いい話ですよね(*^^*)
読んで下さってありがとうございます。
ブラックモンブランの千円当選以上に価値ある読み物頂いた気分です。
昔は良く、千円当選してた!
それだけ食べてたってことでもあるけど(笑)
今日も食べようかブラックモンブラン(๑´ڡ`๑)v
いい話ですよね(*^^*)
読んで下さってありがとうございます。
ブラックモンブランの千円当選以上に価値ある読み物頂いた気分です。
昔は良く、千円当選してた!
それだけ食べてたってことでもあるけど(笑)
今日も食べようかブラックモンブラン(๑´ڡ`๑)v
Posted by しろちゃん at 2021年06月27日 13:34
しろちゃん様
こんにちは。何とも、涙腺が緩む話をありがとうございます。ニャークロちゃんは、チュールを一気飲みしたようですが、私は記事を一気読みしてしまいました。
市村清さまは明治後半の生まれなので、いずれ調べようと思っていましたが、その人となりが伺える逸話ですね。みやき町からの良い“波動”が、ここまで伝わってくるように感じました。
こんにちは。何とも、涙腺が緩む話をありがとうございます。ニャークロちゃんは、チュールを一気飲みしたようですが、私は記事を一気読みしてしまいました。
市村清さまは明治後半の生まれなので、いずれ調べようと思っていましたが、その人となりが伺える逸話ですね。みやき町からの良い“波動”が、ここまで伝わってくるように感じました。
Posted by SR at 2021年06月27日 13:40
> SRさん
一気に読んで頂きありがとうございます。
メディカルセンターで頂いた、リコー三愛グループパンフレット見ていたらサガテレビの初代会長が市村清さんでした。苦労したふるさとへの恩返し、市村記念体育館も含めて優しさにあふれていると思いました。県民も品性向上に務めないといけませんよね。
一気に読んで頂きありがとうございます。
メディカルセンターで頂いた、リコー三愛グループパンフレット見ていたらサガテレビの初代会長が市村清さんでした。苦労したふるさとへの恩返し、市村記念体育館も含めて優しさにあふれていると思いました。県民も品性向上に務めないといけませんよね。
Posted by しろちゃん at 2021年06月27日 18:22